36、弟橘姫

 あまりに平凡な人達の噂ばかりつづきましたから、その埋合せという訳ではございませぬが、今度はわが国の歴史にお名前が立派に残っている、一人の女性にお目にかかったお話を致しましょう。外でもない、それは大和武尊様のお妃の弟橘姫様でございます……。

 私達の間をつなぐ霊的因縁は別と致しましても、不思議に在世中から私は弟橘姫様と浅からぬ関係を有って居りました。御存じの通り姫のお祠は相模の走水と申すところにあるのですが、あそこは私の縁づいた三浦家の領地内なのでございます。で、三浦家ではいつも社殿の修理その他に心をくばり、又お祭でも催される場合には、必ず使者を立てて幣帛を献げました。何にしろ婦女の亀鑑として世に知られた御方の霊場なので、三浦家でも代々あそこを大切に取扱って居たらしいのでございます。そして私自身もたしか在世中に何回か走水のお祠に参拝致しました……。

 ナニその時分の記憶を物語れと仰っしゃるか……随分遠い遠い昔のことで、まるきり夢のような感じがするばかり、とてもまとまったことは想い出せそうもありませぬ。たしか走水という所は浦賀の入江からさまで遠くもない、海と山との迫り合った狭い漁村で、そして姫のお祠は、その村の小高い崖の半腹に建って居り、石段の上からは海を越えて上総房州が一と目に見渡されたように覚えて居ります。

 そうそういつか私がお詣りしたのは丁度春の半ばで、あちこちの山や森には山桜が満開でございました。走水は新井の城から三四里ばかりも隔った地点なので、私はよく騎馬で参ったのでした。馬はもちろん例の若月で、従者は一人の腰元の外に、二三人の家来が附いて行ったのでございます。道は三浦の東海岸に沿った街道で、たしか武山とか申す、可成り高い一つの山の裾をめぐって行くのですが、その日は折よく空が晴れ上っていましたので、馬上から眺むる海と山との景色は、まるで絵巻物をくり拡げたように美しかったことを今でも記憶して居ります。全くあの三浦の土地は、海の中に突き出た半島だけに、景色にかけては何処にもひけは取りませぬようで……。尤もそれは現世での話でございます。こちらの世界には龍宮界のようなきれいな所がありまして、三浦半島の景色がいかに良いと申しても、とてもくらべものにはなりませぬ。

 領主の奥方が御通過というので百姓などは土下座でもしたか、と仰っしゃるか……ホホまさかそんなことはございませぬ。すれ違う時にちょっと道端に避けて首をさげる丈でございます。それすら私には気づまりに感じられ、ツイ外へ出るのが億劫で仕方がないのでした。幸いこちらの世界へ参ってから、その点の気苦労がすっかりなくなったのは嬉しうございますが、しかしこちらの旅はあまり、あっけなくて、現世でしたように、ゆるゆると道中の景色を味わうような面白味はさっぱりありませぬ……。

 こんな夢物語をいつまで続けたとて致方がございませぬから、良い加減に切り上げますが、兎に角弟橘姫様に対する敬慕の念は在世中から深く深く私の胸に宿って居たことは事実でございました。『尊のお身代りとして入水された時の姫のお心持ちはどんなであったろう……。』祠前に額いて昔を偲ぶ時に、私の両眼からは熱い涙がとめどなく流れ落ちるのでした。

 ところがいつか龍宮界を訪れた時に、この弟橘姫様が玉依姫様の末裔――御分霊を受けた御方であると伺いましたので、私の姫をお慕い申す心は一層強まってまいりました。『是非とも、一度お目にかかって、いろいろお話を承り、又お力添を願わねばならぬ……。』――そう考えると矢も楯もたまらぬようになり、とうとうその旨を龍宮界にお願いすると、龍宮界でも大そう歓ばれ、すぐその手続きをしてくださいました。

 私がこちらで弟橘姫様にお目通りすることになったのはこんな事情からでございます。


底本:「霊界通信 小桜姫物語」 潮文社

1998(平成10)年07月31日第九刷発行
底本の親本は心霊科学研究会出版部
1937(昭和12)年02月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力者: 泉美

かな修正: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。