30 第六境 (下)

 吾輩は呆れて一瞬間牧師の顔を凝視した。──

『それならあなたは何うして此所へお出になって居るのです?』

『イヤわたくしは何やら妙なことで爰へ来たのじゃ。私は病気にかかり、やがて意識を失った。その間に頗る不思議な、そして気味のわるい夢を見せられたが、勿論ここに取り立てて述べる丈の価値はない。夢は五臓の疲れに過ぎんからナ………。やがて回復して見るといつの間にか私は此所へ来て居る。しかし妻は来て居ません。人に訊いて見たが誰もくわしい事を知って居るものがない。その中この教区の前任者が不思議なことでプイと行方不明になったので、私がその代りに教区を預ることになって、今日に及んで居るのじゃ。何人も前任者は死んだものとして居るが、兎に角この土地の生活状態には何やら不可解な点が多い。ここでは誰も死ぬものがない。従って葬式の必要もない。ただ人の知らぬ間に躯が消滅するのじゃナ。多分衛生当事者がひそかに屍体を処分するものかと思うが、そんなことはわたくしの職務外のことじゃから深く訊きただしもしません。何分私の受持っている教区は市の中央部にあるので、朝から晩までかかり切りにかかって居ても間に合わぬ位多忙でナ………。』

『あなたはこちらで結婚でもなさいましたか?』

『無論しました。元の妻は私の病中にてっきり死んだものとしか思われないから、私は何の躊躇するところもなく再婚しました。もちろん私はモー老人で別に結婚はせずともよいのじゃが、しかし妻が居てくれんと教区の事務遂行に関して大へん差支が生ずる。慾をいえば今度の妻がモ少し手腕があってくれればと思うが、まあしかし人間は大ていのところであきらめるのが肝要でナ……。』

『して見ると、あなたは現在地獄に堕ちて居らるる事にまだお気がつかれないのですか?』

『これこれあなたは飛んでもないことを仰ッしゃる!』

 仕方がないから吾輩はここが地獄の一部分であること、又死後吾輩がいろいろの苦い経験をなめたことを物語ってやった。彼は極めて冷かに吾輩の話をきいて居たがやがて口を挿んだ。──

『イヤもうそれで沢山沢山!、 私がもし尋常の人間であったならこのまま黙っては済まされないところじゃが、身分が身分じゃから、ただこれだけあなたに言って聞かせる。──外でもない、それは私があなたの話を全部信用しないということじゃ。今日は飛んでもない人に逢って時間を浪費してしもうた! あなたは嘘つきか、それともあなたの人相から察して、余程の悪漢かに相違ない。一刻も早くこの市から立ち去って下さい。慈悲忍辱の身として私からは告発はせぬ事にするが、若しこれが他の人であったら決してあなた見たいな人物を容赦せぬにきまって居る………。』

 彼は吾輩をうッちやらかして置いて、やがて近づいた二人の婦人に吾輩のことべラべラ説明し始めた。吾輩もこんな所に永居は無用と早速寺院から飛出して了った。


底本:「死後の世界」 潮文社

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎訳

発行: 1995(平成7)年4月20日発行

底本の親本は嵩山房刊 1924(大正14)年12月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。