30 第六境 (上)

 これは一九一四年九月五日に現れた陸軍士官からの自動書記式通信であります。


 さてわれわれはしばらく右の休憩所で一と息入れてから再び前進を続けた。四辺は相かわらず霧の海、その中を右へ右へと取って行くと、間もなく一大都市の灰色の影がチラチラ霧の裡に見え出した。大絶壁に臨める側には高い城壁が築いてあったが先刻一人の男が第五境へ突き落されたのは、右の城壁に築いてある塔の一つからなのであった。

 市街の家屋は大部分近代風のもので、ロンドンの郊外の多くに見受けらるるように、上品振ってはいるが然しまるきり雅趣に乏しいものであった。が、街路は割合に立派で、掃除もよく行届いていた。地獄で清潔らしくなるのは此所から始まるのであった。

 不図吾輩はここに劇場のあることに気がついた。入ってよいかと守護神に訊ねたところが、よいと云われるので早速入った。但し守護神の方では戸外に待って居られた。幸い入口の所に一人の男が居たので吾輩は早速それに言葉をかけたが、先方はジロジロ吾輩の顔を見ながら言った。

『私はまだあなたのことを何誰からも紹介されて居ませんが……。』

『箆棒奴ッ!』吾輩が叫んだ。『こんなところで紹介もへちまもあるもんか!』

『これこれあなたは飛んでもない乱暴な言葉をおききなさる。それでは紳士の体面を傷つけます……。』

 先方はいやに取澄まして居る。仕方がないから吾輩もおとなしく謝って、何んな芝居がここで興行されているかを訊ねた。

『演劇 は市民の風儀を乱さぬ限り何んなものでも興行しています。但し野鄙なもの、不道徳なものは絶対に興行しません。これはひとり演劇に限らず、音楽その他も皆その通りです。』

『イヤ──』と吾輩は叫んだ。『風儀をかれこれ八釜しく言う所は、地獄の中で此処ばかりだ!』

 相手の男は苦い顔をした。──

『ドーもあなたは口のきき方が乱暴で困ります。この世に地獄などと云うものはありません。あっても此所ではありません。』

『下らんことを仰ッしゃるナ。この界隈は皆地獄の領分の中です。立派に地獄に居るくせに、居ないふりをすることはおよしなさい。吾輩は憚りながら地獄の玄人だ。そんな甘い手にはのりませんよ。』

『モシモシ』と彼が言った。「あなたは一たい何地の方で、何所からお出なすったのです?』

 仕方がないから吾輩は簡単に自分の身上を物語った。すると先方は次第次第に吾輩から遠ざかり、やがて吾輩の言葉を遮って叫んだ。──

『それだけ伺えばモー沢山です。あなたは大法螺吹きか、それともよほどの悪漢です。あなたが何と言ってもここは地獄ではありません。多分私達は地上の何所かに居るでしょう。何れにしても従来私は悪漢と交際ったことがないから今更それを始める必要はないです。これで私はあなたに分れますが、序に好意上一片の忠言をあなたに呈して置きます。──外でもないそれはあなたがここで下らない話を何人にもなさらぬことです。さもないとあなたはあの城壁の塔から下界へ投げ込まれますぞ!』

 そう言って相手の男はプイと何所かへ行って了った。

 乃で吾輩はとも角も劇場に入った。内部では丁度一の喜歌劇を演って居ましたが、イヤその下らなさ加減ときたら正に天下一品、音楽は地獄の他の部分ほど乱調子でもないが、しかし随分貧弱なもので、俗曲中の最劣等なものに属した。脚本の筋などときてはまるきり零、全体が平凡で、陳腐で、無味乾燥で、たった一と幕見てうんざりして了った。他の見物人だって矢張り弱り切っているらしかったが、それでも彼等は忍耐して臀を据えていた。

 其所を出かけてその次ぎに一つ二つ音楽会をのぞいて見たが、その下らないことは芝居と同様、とても聴かれたものではなかった。早速又逃げ出して今度は絵画展覧会を覗いて見た。モー大概相場は判って居るので、最初から格別の期待もせぬから、従って失望もしなかった。が、子供の楽書にちょっと毛の生えた位のシロモノばかりを沢山寄せ集めて悪く気取った建物の内部に仰々しく陳列してあった。


底本:「死後の世界」 潮文社

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎訳

発行: 1995(平成7)年4月20日発行

底本の親本は嵩山房刊 1924(大正14)年12月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。