心霊と人生 第五巻第五号  「思想壇」

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思想壇

『精神と霊魂は別物』にはあらず

青郷生

 本誌六月号に、石塚氏の精神と霊魂とに関する所説が掲載されてあったが此問題はどうかすると、区別が一寸困難な感がないでもない。で、極めて簡単にその区別を明かにしようと思う[※行末]。

 石塚氏は精神を「分娩と同時に開始する肉体の所産する一つの力に名づけられたる名称である」としているが、その「肉体の所産する一つの力」とは、どういうことを意味するか、はっきりとは分らないが、肉体の所産する力といえば、例えば食いたくなったから喰い、睡くなったから寝るということなども、その所産する力のように思われる。食いたくなったから喰い、睡くなったから寝るということが個人の精神だとはいわれぬではなかろう乎。

 心霊に志す人士は、個人は肉体機関と霊魂との合併協同であることを承認されて居るから、所説を進むるに甚だ都合がよい[※行末]。そしてその肉体機関なるものは或る程度まで漸次発育成長して宿れる霊魂の使用に便ならしむる工夫となっている。が、その機関には善悪良否の差等が甚だ多く、之と同時にそれに宿れる霊魂にも亦善悪良否の差等が無数に上る。そして機関の善悪良否と、霊魂の善悪良否とは必ずしも一致するものではない。

だから「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という原則は、一般には成立しない。その二 三例を示そうなら、支那の諸葛孔明は南陽に耕して居る時、劉備の三顧に黙止し難く、血を喀きつつ天下三分の計に尽したではないか。小楠公は蒲柳の質、劣弱の軍勢を以て、屡々足利の大軍を悩ましたではないか。又大谷吉隆は悪疾に苦しみつつも、其所信に死したではないか。此他此の如き例は、求むれば求むるに従っていくらでも沢山ある。で、「肉体の所産する一つの力」を精神と名づくというならば以上不良の肉体を有する人士の精神も亦不良でなくてはならぬ筈である。然るに事実に於て諸葛孔明、小楠公、大谷吉隆の精神が不良であるとは、何うしても認め得ないのである。

 肉体機関や霊魂の善悪良否を暫らく問題外に置き、私は次の如き見解を有するものである。曰く、

霊魂の思想(霊魂即思想にして、その思想なるものを一定不変だなどと考えてはならない)を、肉体機関を通じて発現せんとする心の本体を精神という。

というに在る。石塚氏がいう所の「人工訓育」は、肉体機関を通じて宿れる霊魂を開発せしむるものであって、霊魂は之によって向上もし、向下もするのである。

 肉体機関なるものを時計の機関に比喩せんとするもよいであろうが、そんな比喩を借りるにも及ばす。睡眠時のことを考えればすぐに諒解し得らるべく思わる。即ち睡眠とは霊魂か一時個体の外に遊離する時に起る現象で、此睡眠中には幾んど精神が個体中にその所在を失して居るのである。併しながら肉体機関はどこからどこまで依然として活動を継続し居ることは争われない事実である。肉体所産の力なるものが、此睡眠中に起らぬという事は、如何なる原因によるか。之を説明してくれなくては一寸貴説に肯きかねる。

 私は曰う。精神も霊魂も決して別物ではなく、唯観点を異にしたときに或は精神、或は霊魂というに過ぎないものであると尚憑霊のことをいえば、所説が複雑するから、此辺で御免を蒙むる。そして石塚氏の所説に対して、敢て駁撃を加えんとする意思より此文を草せるにあらざることをお断りしておく。


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第五巻第七号

発行: 1927(昭和3)年7月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 訳者・粕川章子氏の著作権は残存していますが、当サイトは御遺族の許可を得て公開しています。

※ 入力:いさお      2009年1月24日

※ 公開:新かな版    2009年6月21日


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