10 其の晩年と逸話

2010/11/01

 神戸で無罪の宣告を受けはしましたが、重ねがさねの裁判沙汰は余程無邪気な年惠女の精神に癒すべからざる瘡痍を蒙らせたようです。『大阪などに居るのは厭だ!』――そう言って彼女は翌三十四年にさっさと郷里の鶴岡に帰って了いました。従って京都大学に依んで実験させようとした長南雄吉氏の最初の計画は、この時にも実行されずに了ったのでした。

 年惠女を学問研究の対象とするには周囲の状況がまだ之を許す迄に進歩して居ないと痛感した長南氏は、止むなく従来の計劃を放棄し、郷里の信徒達の望みに任せて惟神大道教会と称する一の教会を設立しやり、叔父の某をして其守りをさせて置くことになりました。そうする中に明治三十八年に至り、老母が死んで可憐な年惠女はいよいよ心細い身の上となりました。その際帰国した長南氏は、モ一度是非大阪へ来るがよいと姉にすすめ、当人はその気になったのでしたが、不相変その時も身辺の頑固連やら策士連やらに阻止されて、とうとう其決心を実行するに至らなかったのでした。

 明治四十年の十一月長南氏が朝鮮に行って不在中、年惠女は郷里で急に歿しました。死期に先立つ二た月ばかり前から、年惠女に憑れる神は『お前は近い中あの世に連れて行く』と時々囁いたそうです。で、親戚の相田良孝という人が大変心配して、長南氏に急いで帰国して呉れと言って来たのでしたが、長南氏は何うしても手離し難い用事の為めに、心ならずも朝鮮に出張し、その為めに姉の臨終にも逢われなかったということです。

 年惠女の歿後、親戚やら信徒やらが集まりて郷里の邸内に一のささやかなるお宮を建て、此無垢の女性の霊を祀り、今でも参拝者の影は絶えぬということです。

 年惠女の神懸りに関する実話――例えば日清日露戦争中の預言、社会に対する予告、紛失物の捜索、病気の治療等――に関しては、到底爰に其全部を紹介するの余地がありませぬ。それ等の記録は後日之を整頓することとし、最後に六月二十八日附で長南氏から私の許に報告された左記書簡の一部を紹介して一と先ず擱筆することに致します。――

『……姉の奇蹟的事実に至りては数限りも無之侯えども、不取敢左に二三を摘出して御参考に供し侯。

 一、明治三十三年二月小生帰郷中、或る夜午後九時頃本人が突然影を失い、家の中の何所を捜しても見当りません。当時雪は三尺以上も積り居り、若し外出したとすれば足跡がある筈だと、信者共が半ばは心配、半ばは好奇心で、夜の更くるも知らず話し合って居りました。すると、午前三時頃に至り、縁側にドシンと奇異の物音がしましたので、一同駆けつけて見ますと、姉が四方囲いをした縁側――雪国では皆囲いをします――に立って居て、おお寒い寒い神様が妙な山へ連れて行ったものだから、中々寒かった、と言い乍ら座敷へ入って来ました。乃で吾々は念の為めに足跡の有無を査べて見ましたが、それらしい痕跡は露ほども見当りませんでした。

二、神懸りのなき際は、姉は十四五歳の子供の如き遊戯を好み、例えば綱引きをするとか腕相撲を試るとか、重い物の持ち競をするとか、そんな事ばかりして笑い興じて居るのでした。綱引きとか手拭引きとかの場合に、大の男が真剣になって三四人で掛っても姉の怪力には及びませんでした。ただ不思議なことには人が姉の背後に廻ると、その怪力は忽ち消失するのでした。

三、姉はよく登山をしました。富士登山の際の如き、自分で蒲団を脊負い、一行の先頭に立って飛ぶが如くに進み、同行の七八人は弱ったという話です。私が同行したのは、羽後の鳥海山と羽前の金峰山のみですが、いつもその健脚には驚かされました。途中姉は地上に平伏することがありましたが、そんな際には空中に必らず笛其他の楽声を耳にしました……。』


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


9 大阪毎日新聞の記事

2010/10/31

 長南氏の談話は前後約二時間に亘り、右に掲げた外にも珍談奇聞が数々ありましたが、以上で長南年惠女の奇蹟的半生の一班は窺われると考えますから、一と先ずこの辺で打ち切りと致し、余は補遺的に略述して此一篇を終ることに致します。

 爰で先ず有力なる証拠物件として掲げて置きたいのは、神戸地方裁判所に於ける公判廷の状況を記載せる明治三十三年十二月十四日の『大阪毎日新聞』の記事であります。急忙の際に成れる新聞記事の通弊として事実の錯誤が可なり沢山あります。実際は二分間であった電話室内の時間を五分としてあるのは些事乍ら誤りです。又実験後再び公判廷を開いて無罪を宣告した事実を顛倒し、無罪放免の後、弁護士連が好奇心から試験を行ったように書いてあるのは甚だしき誤謬です。が、此記事――他の新聞記事も多くはそうですが――に於て尤も苦々しいのは記者の態度のいかにも軽佻浮薄、何等の真剣味をも有って居ないことであります。どうせ新聞記者諸君が、専門の心霊学者ではないのですから、誰しも之に対して余り多くを求めはしませぬが、知らないなら知らないよう、判らないなら判らないよう、何とか然るべき書き方がありそうなものです。ところが多くは兎角歯の浮くようなキザな筆致を弄するのは、余り讃めたヤリ口ではないかと存じます。この大毎の記事なども、或る意味に於ては心霊現象に対する日本の新聞紙の三面記事の代表的傑作? と称してよいかと存じます。

○女生神の試験 自から神変不可思議光如来を気取る、例の女生神長南年惠も、末世なればにや、情なくも獄卒の手にかかり、曩に大阪区裁判所にて拘留十日の処分となりしを不服とし、所々上告し廻りし結果、大阪控訴院の宣告により神戸地方裁判所に移され、一昨日裁判長中野岩榮、陪席判事野田文一郎、岸本市太郎、検事高木藏吉、弁護士横山鑛太郎諸氏にてその公判を開きしが、詰り証拠不充分なりとて無罪放免の身となれり。これに就て弁護士詰所に居合せたる弁護士連が兎に角彼が神授と称する神水こそ世に不思議の限りなれば、試験を行うこそよけれと、本人の生神に申込みたるに、それこそ望む所なりと、容易に承知したるにぞ、先ず同詰所の電話室を仮の試験所に充て、本人の衣服身体を充分に改めしは更なり、電話室をも塵一本だに残らざる様掃除せし上、イザとて生神に小瓶を持たせたるままその中に閉込めしに、中にて何やらん呪文の如きを念唱する気合ありしが、僅かに五分間にして裡の戸をコトコトと叩きつつ出で来るを見れば、不思議や携えたる小瓶の中には濃黄色を帯びたる肉桂水の如きを一杯に盛りつつ、静々として顕れ出でたり。生神のいう所によれば、ただに一本の瓶のみならず幾十本たりとも三方の上に載せ、祈念一唱すれば、その瓶の主なる病人の病症に応じたる神水を天より賜わるなりと厳かに語りたり。その真偽は暫く措き、本人の身体及び室内をも眼前あらためしに、五分間を待たずして神水を盛りつつ顕れ出るは兎に角不思議なり。或は口中より吐きたるならんというものあれど、その液体は色こそ少しく茶色を帯びたれ、透明液にして口中より吐きたるものとは認め難く、さりとて神授なんど世にあるべしとも思われねば、更に確むるこそよけれとて、弁護士中の好事家は、日を期し、更にその真相を探り極めんと、用意をささ怠りなしと聞く。(大阪毎日新聞、明治三十三年十二月十四日第七頁)


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


8 法廷に於ける霊水湧出

2010/10/30

 話題が裁判問題に入るに及び、長南氏の談話にはいよいよ熱度が加わりました。同氏は語りつづけました。――

『裁判問題は、右の様な次第で大変手間どれましたが、其間に大阪控訴院に於ける控訴上告は破棄されまして、神戸地方裁判所で再審理を受ける事になりました。当時この事件に関係した判検事をはじめ、弁護士に至るまで今でも殆んど全部行方が判って居るのは、資料の権威を加える点につき甚だ好都合であります。此事件の裁判長は中野という判事で、私が現在どうなったか存じませんのはこの方だけです。陪席判事は岸本さんで現在は大阪で弁護士を開業して居られます。又検事の高木さんも矢張り只今老松町で弁護士、それから私の方で依頼した弁護士が、御承知の横山鑛太郎氏……現在では東京控訴院の検事部長を勤めて居られます。お閑がお在りなら一応此等の関係者に就きて当時の実状の調査をなされたら又何等かの新材料が手に入らぬものでもなく、又私の談話の裏書ともなる訳です。是非機会を見てそうなさる事を希望致します。

『さていよいよ十二月十二日を以て神戸地方裁判所に於ける公判の開廷という段取に進みました。爰で法廷の模様を一々述べる必要は厶いますまい。裁判長、陪席判事、立会の検事をはじめ弁護士、被告等すべて型の如く座席を占め、型の如き訊問が一と通り済みました。やがて中野裁判長から、被告はこの法廷に於ても霊水を出すことが能るかとの質問でした。姉は平気で、それはお易いことで厶いますが、ただ一寸身を隠す場所を貸して戴きたいと答えました。そこでいよいよ適当の場所に於て実験執行ということになり、一旦公判廷は閉じられました。

『裁判官達は其実験の場所につきて暫時会議を遂げた上で、結局弁護士詰所をそれに宛てる事にきめました。御承知かも知りませんが、当時神戸の裁判所は新築中で、弁護士詰所の如きは、やっと電話室が出来上ったばかりで、電話の取付はまだしてありませんでした。この電話室を塵一つ留めぬまでに掃拭し、姉を其中に入れることになったのであります。

『いよいよ実験となると、姉は裸体にされ、着衣その他につきて厳重なる検査を施行されたことは申す迄もありません。そして裁判長自から封印せる二合入りの空壜一本を手づから姉に渡し、係りの判検事は申す迄もなく、弁護士やら官吏やら多数環視の裡に、姉は静かに右の電話室に入って行ったのであります。

『姉が電話室に入ると同時に、私は携帯の時計を取り出して時間を計りました。すると正に二分時を経過せる時に、電話室の内部からコツコツと合図が聞えます。そして扉が開かれて立ち出でたる姉の片手には、茶褐色の水を以て充たされたる二合壜が元の通り密栓封印のままで、携えられて居たのであります。――

『公判廷は再び開廷せられ、茶褐色の水の充ちたる二合壜は判官の机上に安置されました。裁判長と被告との間には次ぎの如き奇問奇答が交換されました。

問 「この水は何病に利くのか」

答 「万病に利きます。特に何病に利く薬と神様にお願いした訳で厶りませぬから……」

問 「この薬を貰って置いて宜しいか」

答 「宜しゅう厶ります」

 此の如くにして訊問は終り、即刻無罪の宣告が下りました。』


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


7 大阪に於ける拘留沙汰

2010/10/29

『それは斯うです』と長南さんは物語りを続けました。『大朝の記事が出てからたしか三日目位でした、私の寓居は突然多数の警官に包囲され、家宅捜索を執行されたのでした。折から私は外出中でしたが、家人の談によると、それはなかなか厳密な大捜査で、何か薬品様のものを隠して居はせぬかと言って床下までも捜がしたそうです。――無論いくら捜索されたとて薬品などの有ろう筈がありませんから、警官隊は手を空しゅうしてスゴスゴ引き上げたのでありますが、即夜姉を呼び出して拘留十日に処分しました。

『縦令五日でも十日でも人を拘留処分に附するには、それ相当の理由がなければならぬ筈です。所が私の姉の場合にはいかなる理由があるのか更に私には判らない。姉は何処までも従順で、拘留すると云えば甘んじて拘留され、監禁するといえば歓んで監禁される性質の婦女でしたが、苟くも其監督者の地位に立てる私としてはそうは参りません。遂に私は右の言渡しを不当として正式の裁判を仰ぎ、控訴上告にまで及んだのでした。

『私が一方に於て斯く訴訟問題に気を揉んで居るにも係らず、御当人は至極暢気なもので、八月下旬従者数名を引具し、富士登山に出掛けて了いました。そしてそのまま山上に籠り、九月、十月、十一月と幾度び月が変っても下山しないのには弱りました。神霊の守護を受けて居る以上、其身体についての心配は殆んど無いとしても、裁判の問題は本人なしには進行させる訳に参りません。正式裁判を仰ぎ乍ら、延期又延期では、私の名誉上の問題でもありますから、屡々人を富士山に派し、いろいろ手を尽した上で、十一月の下旬に至り、ヤッとの事で姉を大阪まで連れ戻ることが能き、それで私もほっと安心したような次第でした。』


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


6 霊水忽ち壜中に湧く

2010/10/28

 長南氏は息をもつかず談話を続けました。――

『当時空堀町の私の寓居は二階建で、階上には両便所も附属して居ました。私はこの二階を姉の居室と定め、第一にその両便所を密封して了いました。姉が翌年帰国するまで一年有余の間、両便所がそっくり密封のまま残ったことは申すまでも厶いません。そして病気の治療其他姉に関する一切の仕事は皆この二階で執行されました。

『私は姉が什麼ことをして病気を治すか、一と通り其実況を述べて置きたいと思います。先ず驚かれるのは其感応の強烈なことで、患者が玄関に入ったか入らぬ時にモー二階の姉の肉体に当人の病気が感応するのです。その際姉に病気治療を頼む人々は薬瓶なり、ビール壜なり各自思い思いに空壜を携えて来るのですが、姉はこの空壜を十本でも二十本でも一つに固めて御三方の上に載せて神前に供えます。無論壜には栓を施したままで、一々依頼者の姓名が書きつけてあります。

『姉が神前に跪坐して祈願する時間は通例十分間内外です。すると右の密閉されたる十本なり二十本なりの壜の中にパッ! と霊水が同時同刻に一ぱいになる――それが赤いのやら、青いのやら黄いのやら、樺色なのやら、疾病に応じてそれぞれ色合いが違います。イヤ実況を見て居りますと、まるで手品のようで、ただただ不思議と感歎するより外に致し方が厶いません。一通り貴下方にも其実況をお目に掛けたいものでした……。』

『全く残念なことをしました』と、私は答えました。『ブラバッキィ夫人などの記録を読むと、それに類似の奇蹟的事実がいろいろ書いてありますが、不幸にしてまだ一度も実地を目撃したことが厶いません。――それはそうと其神授の霊水は病気にはよく効ましたか?』

『イヤその効験と言ったら誠に顕著なもので、什麼病気でもズンズン治りました。――尤も神から不治と鑑定された人、又試しに一つ行らして見ようなどとした者の壜には霊水が授からないのは不思議でした。十本か二十本の中には其様なのが一本位は混るようでした。斯んな塩梅で、壜の数は何本までという制限はなかったように思われますが、私の知って居る所では、一時に空壜がズラリ四十本ほどお三方の上に並んだのがレコードで厶いました。あの調子で考えると百本でも二百本でも一時にぱっと霊水が入ったろうと思われます。

『兎に角この通りの騒ぎですから、約束の伊勢参宮だけは済ませましたが、なかなか以て姉を京都大学に連れて行く遑が厶いません。こりゃ手取早く寧ろ一応此事実を新聞紙に掲載さした方がよいかも知れぬと私は思いました。幸い当時大阪朝日の社会部長を勤めて居る渡邊霞亭君とは懇意であるから、此人に依んで実験に立会って貰い、正確な記事を書いて貰おうと思いまして、私は自身新聞社に出頭し同氏に面会してその快諾を得たのでした。然るに実験の当日に至りまして霞亭氏に差支が出で、代理として角田浩々歌客及び他に一名の記者が大朝社から特派されました。

『当日の光景は尚おはっきりと私の眼底に残って居ります。御神前――と言っても床の間に天照大御神のお掛軸が掛って居る丈の簡単なものですが、其所には御三方に載せた約二十本の空壜が供えてあり、姉は其前に拝跪して頻りに祈願を籠めて居る。次ぎの間には前記二名の新聞記者を始めとし、十数名の友人知己が様子いかにと眸を凝らして居る……。と、約十分の時刻が経過したと思わるる途端に、今迄三方の上に並列してあった不景気きわまる空壜が、さっと虹でも現われたように、千紫万紅とりどりの麗わしい色彩に急変しました。各種の霊水が壜中に充満したのであります。――この実験の模様は当時の大朝紙上に数日間続き物として連載されましたから、関西の読者の中には記憶されて居る方が少くないと存じます。尤も例の新聞記者の常として自分の腑に落ちない事があると出鱈目な臆説やら、籔から棒式の邪推を振り廻すのが常で、大朝の記事にも随分下らぬ個所が多いようでした。何んでも胃袋の中にゴム管を通して胃液か何んかを壜の中に入れるのだろうなどと書いてあったように記憶します……。』

『そいつは随分滑稽ですな。当時の大朝のお持合わせは厶いませんか?』

『生憎紛失して了いました。たしか三十三年の八月頃かと記憶しますから、何所かでお捜しを願います。――所で、右の大朝の記事が原因で、大阪に於て又々姉の身辺に裁判沙汰が持ち上り、飛んだ大騒ぎをやりました。あんな無邪気な姉が一生に三度までも訴訟問題に引掛ったのですから愕きます。尤も其お蔭で心霊現象に対する証拠物件が豊富となり、今日貴下方が姉の記事を作成されるには何れ丈便利だか知れません。一面から見れば私どもは貴下方の心霊研究会の為めに二十幾年も前からせっせと材料を蒐集して居たと観れば観られぬことも厶いませんな。イヤドーも御苦労な話でハハハハ……。』

『イヤ全く其局に当った方々の御苦労はお察し致します。――時にその裁判沙汰というのは什麼して起ったので厶いますか?』


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


5 年惠女の大阪入り

2010/10/27

 監獄署に差出した証明願は空しく却下され、それによりて姉年惠の奇蹟を天下に公表せんとした長南氏の計劃は爰に一頓挫を来しましたが、しかし一且心霊に目覚めたる同氏は、それしきの事でその計劃を放棄しようとはしませんでした。氏は考えました、姉の神懸りは別としても、単に両便不通、絶食絶飲等の生理的現象だけで優に学界の研究材料とするに充分である。それには不取敢姉を帝国大学に提供して見るのが順当であろう――そう思いまして、東京の井上圓了博士などとも相談の上、其手続を執ろうとしたのでしたが、事情ありてその計劃も亦実行されずに過ぎて了いました。長南氏は語りつづけました。――

『私の姉というのは、前にも申上げました通り至って無邪気な、まるで赤児のようなもので、何とでも他の言いなり次第になります。所が、斯んな霊覚者の周囲には、一方に正直な善人も集まりますが、他方には又物の道理の判らない、頑固な有り難連中やら、神をダシに使おうとする宗教策士達やらが兎角集まって来たがるもので、それ等は研究とか実験とかいう事には常に極力不賛成を唱えます。姉の場合に於ても矢張りそうで、取巻連が無邪気な姉を動かして、什うしても東京へ出ることを承諾しないのには弱りました。

『で、私はがっかりして一旦大阪へ引返しましたが、姉の不思議な躯を学問研究の対象としたいという念慮は抑えんとして抑うるに由なく、何とかして素志を貫徹しようと脳漿を絞った結果、とうとう私は伊勢参宮を口実に一と先姉を大阪に呼び寄せ、その上で京都大学に連れ込む計劃を樹てました。

『この計劃は私の思う壷に嵌りました。姉も伊勢参宮は年来の希望でありますし、又周囲のものどもも之に対して不服を唱うべき理由を発見し得ません。とうとう明治三十三年の春、姉は山形を立ち出で梅田の停車場へ姿を現わしたのですが、姉を取巻いて居る三四の頑固連はどうしても其身辺を離れず、御苦労にも大阪まで踉いて来たのには驚きました。

『兎も角も、首尾よく大阪へ出て来るには来ましたが、姉がまだ到着せぬ先から、不思議な神女が来るという風評が私の友人からその友人の、その又友人にも伝わるという有様、私の空堀町の住居は、忽ち病気直しを頼む人やら、伺いを立てる人やらで、朝から晩まで雑沓するようになって了いました。斯うなりましてはなかなか予定通り京都大学へ連れて行く隙とても厶いませんでした。イヤ何うも心霊方面の仕事となると騒ぎが大きくなり勝ちで困ったものです……。』


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


4 鶴岡監獄支署の事実証明

2010/10/26

 いかに場所は裏日本の一隅に僻在せりとはいえ、これほどの心霊現象が起って居るならば、せめて東京の学界位には伝わりそうなものに思われますが、きいて見ると事実はなかなかそれ所でなく、当時の日本の官憲は、いかにして此心霊現象を撲滅し、此無邪気なる婦人を抑圧すべきかに全力を挙げたのでした。西洋の物質文明に中毒した日本の官憲は、恐らく国内にかかる心霊現象の起るのを国家の恥辱とでも考えたのでしょう。兎に角当時の官憲の長南年惠女に対して執れる態度方針は無茶と言おうか、乱暴と云おうか、醜劣と言おうか、全く以て箸にも棒にもかからぬ性質のものでした。官憲は事実の有無、真偽等には何等の顧慮なく、『妄に吉凶禍福を説き、愚民を惑わし世を茶毒する詐欺行為』と認定して、此憐むべき女性を引続き二回――即ち明治二十八年七月より六十日間、及び同二十九年十月十日より七日間、山形県監獄鶴岡支署に監禁したのであります。由来官憲の圧迫は何れの邦土でも破天荒の心霊現象又は蓋世的宗教運動には附随物で、格別珍らしい事柄ではありませんが、年惠女の場合の如きは就中気の毒なものでした。郷党の間に『極楽娘』と綽名される無邪気な婦人をつかまえ、その身辺に不思議な現象が起るからと言ってポンポン監獄へ放り込む……。何う考えたからとて正気の沙汰とは申されません。

 此官憲の無理解と圧迫とは明治三十二年に至りても、減少するどころか、却って熾烈の度を加えました。そこで郷党から長南氏への帰郷強請ともなったのでした。

『巨細の実状を知らぬ間こそ黙って見て居ましたが』と、長南氏は当時を追懐しつつ物語をつづけました。『一旦帰郷の上で数日の間実状を調査して見ますと、私は、こりャこのままに放任する訳には行かぬという気になりました。事実無根を事実無根として真相を曝露し、詐欺行為を詐欺行為として懲罰を加えるのならば元より正当でありますが、正直一方、真心一方で行って居るものを捕え其身辺に起る所の現象が自分達の貧弱な頭脳と浅薄な智識で説明することが能ないからと云って監獄に入れるというのは何事か。――彼等といえども、姉の身辺に起る現象が決して虚偽の片影すら混らぬことは、姉の二度の監獄生活で知り切って居る。それにも係らず尚お強いて人為的に此確実なる事実を撲滅すべく力瘤を入れるとは余りといえば片腹痛い。曲学阿世か、科学迷信か。何れにしてもこの侭には棄て置き難い……

『とうとう私も憤慨の余り、明治三十二年九月二十一日附を以て、山形県監獄鶴岡支署長渡邊吉雄という人に、姉年惠の在監中の生活実状に就きての証明願を提出する事になりました。証明の項目は(一)両便の不通なりし事、(二)絶食の事(前の六十日間拘禁の時は、監獄規則上何か食えと強いられ、一日に生芋二十目ずつを食したるも、後の七日間は一物だも食物を口にせず、一度葡萄を口中に入るるや忽ち吐血したる事実、(三)拘禁中前署長有村實禮の需めに応じ、檻房内にて神に願い、霊水一壜、お守一個、経文一部、散薬一服を授けられて之を署長に贈りたる事(四)同囚の需めにより、散薬を神より授かり之を与えたるに、身体検査に際し右の事実が発覚せる事、(五)監房内に神々御降臨の場合には、掛官の人々が空中に於て笛声其他の鳴物を聞きたる事、(六)監房生活中姉の蝶々髷は常に結い立ての如く艶々して居り、姉は神様が結って呉れるのであると言い居たる事、(七)一斗五升の水を大桶に入れ、それを容易に運搬し居たる事(八)夏期蚊軍来襲するも、年惠の身体には一疋もたからず、遂に在監中姉一人のみ蚊帳の外に寝臥した事、等の八ヶ条でありました。

『右の証明願はやがて附箋附で却下されました。其附箋の文句は斯うです――明治三十二年九月二十一日附を以て長南年惠在監中の儀に付願出の件は、証明を与うるの限りにあらざるを以て却下す――何と面白い文句ではありませんか。事実は事実だが証明を与える限りでないから却下すというのですから確かなものです。斯んな結構な証拠物件は厶いません。私もこりャ大事な品物だと考えましたから斯の通り立派に保存して置いてあります。』

 そう言って長南氏は半紙五枚綴の所謂御証明願を出して私達に示してくれました。それは相当に時代色を帯び、そして附箋には『山形県鶴岡支署印』なる長方形の印版が鮮かに捺印してありました。

『イヤーすてきな証拠物件が残って居たものですナー』私はそれを一見すると同時に思わず感歎の声を漏らさずには居られませんでした。『是非写真にも撮り、又文句も写し取って置きたいと思いますから暫時拝借を願いたいですが……。』

『承知致しました、お持ちかえりになられても構いません。』

 長南氏は言下に快諾を与えて呉れました。右の『御証明願』の原文は私の手許に写し取ってあります。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


3 竹に栗鼠

2010/10/25

 明治二十五年の帰省に際し、長南氏が郷里に滞在した日数はたった五六日でしたが、それでもこの人の胸底に心霊現象に対する興味と理解とを植えつくるには充分であったようであります。実地の体験となると不思議に根強い印象を与えるもので、それが永久にその人の精神の糧となる場合が多いのであります。長南氏の場合の如きは確かにそうらしいのでした。同氏がその後の姉の動静に対する注意のいかに綿密に、いかに真剣になったかを見ればよく判ります。同氏は熱心に物語をつづけました。――

『私の郷里滞在の時日は甚だ短いもので、祖母の葬式が済むや否や、私は母と姉とを郷里に残して又大阪に出てまいり、相変らず世間の俗事に奔走して居りましたが、明治二十七年に至り、郷里の親戚縁者又村の役人、学校の教員等から、頻々として姉に関する通報が私の許に舞い込んで来るようになりました。ヤレ姉の年惠は近来全く両便が不通になった……。ヤレ姉の日清戦争に関する予言は一分一厘の誤差なく皆的中した……。ヤレ不思議に病気が治るので、北海道辺からも依頼者が雲集する……。まあ斯う云った種類の事柄で、兎に角郷里の方では大騒ぎであるから、一度都合をつけて是非私に帰って来いというのです。

『これが唐突の話なら恐らく私は一笑に附し去ったかと思われますが、明治二十五年の帰省のお蔭で多少の興味は私の胸にも湧いて居ましたから、帰心は真に矢の如きものがありました。が、何を申しても当時の私は俗界に縛られて居る身でドーする事も能きず、心ならずも空しく数年を送りました。

『が、明治三十一二年となりますと、郷里の方ではモー承知しなくなりました。近頃は不思議な現象がいよいよ顕著であるに連れて官憲の圧迫が劇甚である。早く帰国の上何とか処理をつけてくれ。愚図愚図して居るべき問題でない、というのです。官憲の圧迫ということを耳にしては私も其侭放任して置けなく感じまして、百忙中に一閑を割き、急いで帰国したのは、たしか明治三十二年の七月の事でした。

『ところが、帰って見ると、今更私は吃驚しました。婦女二人の閑寂なるべき筈の私の生家は、まるで黒山のような人だかりで、それを出張の警官達が追い払って居るという騒ぎです。

『段々落付いて査べて見ると、斯様な人だかりがするのも決して無理ではないと思わるる奇現象が続出して居るのでした。姉の身体に神様がいざ御降臨となると、先ず驚かるるのは空中に種々の音楽が聞ゆる事で、それは笛、篳篥、箏、錫、鈴等の合奏であります。それまで私は風評にはきいて居たが、心の中ではよもやと思って居りました。所が、いよいよ現場に臨んで見ると実際嚠喨たる楽声が虚空に起り、しかもそれが分明と其場に居合せる数十百人……警戒の巡査達の耳にまで聞ゆるのです。数日滞在の間に私も五六回それを聞きました。

『それから親しく実況を目撃していよいよ呆れましたのは、姉の生理状態の以前よりも一層極端に変調を呈して居ることでした。私が参りました時には絶食正に六ヶ月、従って用便全く不通、生水なら少しは嘗めるが、その外のものは一切口に入れないという現状でした。――その癖、当人の健康状態は頑強無比、肉附もよく一斗や二斗の水桶を平気で提げて歩くのです。

『モ一つ驚きましたのは、姉の身体に神様が憑依ったとなると、態度も音声もまるで別人格となり、そして衆人環視の前で一気呵成的に立派な文宇を書いたり、絵を描いたりすることでした。申上ぐる迄もなく姉は全く無学で、そして平常はよくよく無邪気な、殆んどバカ見たいな資質の女なのです。所が、其神懸りの製作品となると斯の通り素晴らしいものです。』

 斯く述べて長南氏は古色を帯びた半切の掛物を繰り拡げて私達に見せました。それは竹に栗鼠の図で、墨色といい、筆勢といい、又構図といい、正に一流の大家の作品です。

『イヤーまるで狩野だ! 神懸りの絵と称するものも沢山あるが、これほどのは、全く見たことがない!』

 私達は右の絵画に対して、覚えず感歎の辞を漏らさずには居られませんでした。長南氏は此絵を描いた二十余年前の実況を思い浮ぶるような面持で、

『あの時私は姉が什麼様子をして描くか、その一挙一動にまでも注目して居ました。するとその両眼はガラスの球のように、キュッと据わって、心持ち目尻が釣りあがって、有り合わせの筆を執るより早く、差し展べた紙にこれを描いてのけたのでした……。』


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


2 湯冷しを飲みて吐血

2010/10/24

 やがて長南氏は再び物語のつづきを始めました。――

『兎に角姉の身につきては私の腑に落ち兼ねる事柄ばかりですから、私は生家に滞在した数日間有らん限りの注意を払い、又能う限りの実験を試みたのであります。ところが事実は却って母の物語以上、又私の想像以上であったから驚きました。

『私には姉が煮焚きしたものを食べられないという事が第一に信じ難い事柄でした。――食べられないのではあるまい。自分の気侭で、そんな事を言って居るのだろう。――私はそれ位に考え、真先きにその真偽を確めて見ようと決心しました。

『試験は極めて簡単でした。私は素知らぬ風をして湯冷しを造って、それを生水だと称して、姉に侑めたのであります。無邪気な姉はそんな計略のあることは夢にも知らず、何気なくそれを飲みましたが間もなく非常な苦痛で、飲んだ湯冷しを吐いたばかりでなく、その後で血を吐いたのです!

『それがただ一回の吐血なら、偶然という事もありますが、試験の都度必らずそうなのですからさすがに頑固な私もこの事実丈は承認せざるを得なくなりました。いかに自己の経験や知識を標準としてそんな事実は到底有り得べき筈がないと結論して見ても、事実は飽くまでも事実で、理窟を以てそれを取消す訳には参りませんでした。

『尚お私が帰宅したその当夜から、母の述べた家鳴り震動、その他数多の怪異が起ったことも事実でした。――が、私はそれ等の事柄は余り詳しくお話し致し度くはありません。そんな話は在来の有り触れた妖怪譚などにもよくあることで、よしそれが事実であるにしても、別に特筆大書する程の貴重な材料とも考えられませぬ。

『が、これまでの所は私の姉の身に起った神秘的事蹟のホンの発端で、もっともっと不思議な事が其後に於て追々発展して行ったのであります。惜しい事には姉の事蹟に対する私の知識が、ともすれば間歇的、断片的になることがありますが、しかしそれは姉の生涯の前半期と終末期とに関する丈で、幸いにも私は姉の奇蹟的生活の花ともいうべき時代を一緒に大阪で送りましたから、その点は誠に好都合でした。』


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


1 奇蹟の発端

2010/10/23

『私の郷里は山形県西田郡鶴岡町であります。私は明治元年生れの本年が五十六歳(大正十二年)姉の年惠は丁度十歳の年上でした。この姉に破天荒の奇蹟的事実が起るようになりましたのは、明治二十五年から同四十年に至る前後十五年間の事であります。』

 長南氏は蒲団の上に跪坐したまま、時々眼をつぶって、遠い過去の光景を追懐しつつ物語りをすすめるのでした。――

『私は元来早く郷里を出て居りましたから、姉と同居した小供の時の事をよくは記憶して居りませぬ。ただ姉が人並外れて寡黙の性質であったこと、母や長上に対して極めて従順で、未だ曾てその命令に背くようなことの無かったこと、体質が優れて強健であったこと、それから無慾も無慾、殆んど愚物に近いほど無慾で、人が欲しいといえば、羽織でも簪でも、さッさと呉れて了って惜まなかったこと、位を夢のように覚えて居るだけです。私の姉に対する正確なる智識は明治二十五年の帰郷を境界として始ります。

『当時私は在京中でした。たまたま祖母が、東京で歿しましたので、私は其遺骨を奉じて郷里鶴岡町に帰る事に成りました。父は私の幼時に歿しまして、当時郷里の生家には母と姉とが二人で寂びしく不在を守って居ました。私が姉に就いて初めて不思議な話を母からきかされましたのはその時の事であります。年惠にも困ったものだと、母は涙ながらに私に向いかき口説くのでした。今年三十五歳にもなるのに、年惠はまだ経水もなく、身体は大人でも気分はまるで十三四の小娘そっくり、しかも近頃は煮たり焼いたりしたものは一切食べず、ホンの少量の生水と生の甘薯とを食べるばかり……、そして家の内には時々不思議が起る……。何事もないのに家鳴り振動したり、又神様から品物を授かったり……。この先きどうなる事かと、心配でならない……。

『当時私は二十五歳の血気の青年で、一と通り浮世の波にも揉まれ、又学問の端くれも囓って居りましたから、母の話をききましても先ず半信半疑で、私は、まあ阿母さん、心配なさいますな。あるべきものがないというなら姉さんは一生独身で暮らしさえすりャ可いじゃありませんか。――斯んな気休めを申しまして、其場を繕って置きましたが、しかしつらつら姉の様子を見ると、母の心配されるのも成程無理はないと思わるる節々がないではありませんでした。第一驚かるるのは姉の容貌の若々しさ。三十五歳の老嬢のくせにドー見ましても十五か十六の小娘の顔なのです。――イヤ姉の顔の若い事に就きましては、私も飛んだ迷惑を受けて居ります。姉が私の宅に同居して居たのは、四十二三の時分でしたが、余り若く見えるので、私の友達どもが長南は怪しからん奴だ! 近頃若い妾を引っ張り込んで居る。――そう言って私を攻撃したものです。』――

 斯く述べて長南氏はカラカラと打笑いました。私も覚えず筆をさし置いて共に笑いながら、

『時にその貴下の姉さんのお写真はお手許にありませんか。若しお在りなら拝借したいものですが……』

『ある事は一枚在ります。しかし丸出しの田舎者が、田舎の写真屋で撮ったものですから、実物よりは大変老けて見えます。』

 斯く述べて長南氏は夫人を呼んで一枚の手札形の写真を出して見せてくれましたが、成ほど二十代としか見られない、体格の良い田舎婦人が写っていました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


2016年8月
« 11月    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  
小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。